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家でむすこのことを見ていて、とりあえず「自信をもたせよう」と言う事に一生懸命になって「境界知能」の診断だったと言う事を忘れていました。
今、wisc-Ⅳを受けても同じような診断をされてしまうと思いますので、「いまどうなんだ?」「改善はあるのか?」等と言った数値に頼った検査を受けるのは、しばらくは辞めておこうと思っています。
(ぼくがちょっと恐がっていることもありますので。。。。)
その診断を受けた時に、「知的障害」(IQ0~69)の子は2%、「境界知能」(IQ70~84)の子は世界で大体14%ぐらいいるのではないかとお聞きしました。もちろん、地域によって違うと思いますので、世界でも教育環境が比較的高い日本ではその割合は少ないかもしれません。
それを考慮せずに「境界知能」14%の数字をあてはめるとむすこのクラスは34名ですので、34人×14%=4.76人 いる事になります。
逆に知能指数の真ん中がIQ100なので
「IQ115~129」の子も14%ぐらいの割合なのでしょう。たぶん。
でそれ以上の子「IQ130~」が2%ぐらいかな?
残りの約68%が「普通の子」と分類されるのかと思います。数字上では。
知的障害 | ~IQ69 | 2% |
境界知能 | IQ70~84 | 14% |
ふつう上中下 | IQ84~114 | 68% |
高い | IQ115~129 | 14% |
更に高い | IQ130~ | 2% |
これは、あくまで知能検査と呼ばれるものの話なのですが、「知能が高くても、あっちの方がね~」とか言う話をするつもりはありません。みんな程度の差はあれども凸凹があるのは当たり前なので。
ぼくは、むすこが「境界知能」と診断された当時に、「なるほど、それがこんなことに反映されちゃってるのね」と納得したことを記述してみたいと思います。
見た目では全くわからない
小学校入学後しばらく、行動様式が保育園の頃と変わらない
今でもそうなのですが、むすこが学校は何しにいくのか理解していなかったのが、1年生~2年生の頃。ひょっとして3年生の頃もそうだったかもしれません。
頭の中の発達と言うか切り替えが出来ていなく、保育園に行くように学校に通っていたのが低学年の頃です。学校でする授業も、体育も、休み時間で校庭で遊ぶことも、全部保育園の延長です。学校はともだちがみんな集まって楽しいところと言う認識しかなかったようです。
授業中はいちお、静かに席に座っている方ですが、ほとんど授業を聞いていません。プリントやテストの時に初めて手を動かすと言う感じなので、出来るはずはありません。
たし算、ひき算は簡単なので何とか見ただけでこなしていたみたいですが、LDの症状から文字が読めないので文章問題に取り組むことができません。当時は文字もうまく書けませんでした。
この頃は、LDと分かっていなかったのでいつも「なんでこんなくそ簡単な問題わからないの?」と怒ってばかりでした。
運動神経だけは、優れているので駆けっこしても普通に早いのですが、運動会で競争する意味もわかっていません。「走って1等取ればいいんでしょ」とそんな感じです。
一番びっくりしたのは、持久走大会の朝出かける時に「今日、おれ80週するから」とか言って出かけて行きました。持久走大会もただ、みんなをぶっちぎりで走ればいいんだぐらいしか思っていないようでした。
低学年の頃は、保育園生が小学校に無理やり行っていたそんな感じです。
やさしさを間違えていた時期
2年生の頃まで、ベイゴマの進化したようなコマである「ベイブレード」に夢中になっている時期がありました。
その時に、「ほしい、ほしい」と言われた「ランチャー」と言うものを買ってあげたことがあります。
基本的にベイブレードはともだちと勝負をするものです。
そのランチャーを買ってあげた翌日に、おともだちのお母さんが返しに来てくれたことがありました。
突然の事で「なんで、おかあさんがうちのランチャー持ってきてくれたんすか?落としてました。ありがとうございます」と言うと、違ってうちのむすこが、お母さんの子にあげたからわざわざ返しに来てくれたとのことでした。
その子、0歳の頃からおともだちで長い付き合いなのですが、かなり高圧的で、怒りんぼで、背も高く、むすこは嫌いでは無さそうでしたが、頼まれれば嫌とは言えないような雰囲気を作る子でした。
(今は、違いますよ。50m先からでも頭を下げてくるような挨拶も出来て良い子です。)
きっと、その新しいランチャーがその子にとって、とても魅力的なものに見えたのでしょう。強く「ほしい!」と言われ、あげると「ありがとう!」と言われるのが何となく認めてもらったようでうれしかったのかもしれません。
1日であげてしまうなんて、ぼくがその子に買ってあげたようなもんです。
そんなともだち付き合いをしているのか、、、、何かあるなと感じたことがありました。
今思うと、学校でも授業分からないし、家帰ってきてもおとうちゃんに言われるし、良い事があまりない。そんな中「ありがとう!」と言われると、誰かに認められたようでうれしかったのかもしれないと思っていたのかもしれないとぼくはみています。
コミュニケーションも取れる、運動もできる。これではわからない。
こんなにおしゃべりだし、体幹も良いと言われるぐらいでいたって普通なのに、学校のテストの点数は取れても30点程度で、読書どころか国語の教科書すら読むことが出来ないのだろうと言うのが小学校低学年の頃のむすこでした。
当時、知能指数ぐらいはことばだけは知っていましたが、境界知能、ましてや学習障害と言うことばすら知りませんでした。
この事って、身体的な障害や、顔色に出る等しなければ全くわからないことです。
知識を吸収するのに必要な、字を読むことが困難だったなんて全く想像ができません。
それでも、特性を認識できる機会を早く作ってあげたかったなー
義務教育で一斉教育を進めていきたいのであれば、それぞれの特性を親も教育機関も認識する必要があるのではないか?と感じるのであります。
授業がわからなければ「落ちこぼれ」
教科書のことを全部覚えて答案にできれば「優秀」
全くナンセンスだとぼくは思います。
テストの答案にあることを書けるだけで認めてもらえるような世の中なんて逆に疑ってしまいます。
小学校に上がる前、それから、半年、1年に一回ぐらい、それぞれの特性が認識できるような検査をして習熟度別の授業を取り入れる機会があっても良いのではないか?そのような必要性を感じます。
そうすれば、勉強が出来る出来ないこと以上に基礎的なひらがな、カタカナへの取り組み。それ以上に、ぼくがむすこへの接し方が変わって来て、もっと早期に改善が進んだかもしれません。
まとめ
うちのむすこの場合、いっしょに学習を見ていたことで障害がわかりました。
学習を一緒にやっていなければ、見た目も普通なので全く分からず、「ただ勉強ができない子」のまま過ごしていたかもしれません。
やはりある程度関わりを持って、むすこに対する閃きがあったからこそ分かってきたことです。
今の、暗記に頼る日本の学校教育が間違っているとは言いませんが、そもそも字を読むのが困難である場合は、暗記も何も出来る訳がありません。
今は、上に挙げた例のような事はあまり見られなくて、嫌な事ははっきり「やだ!」「だめだ!」「やめろ!」「おれはやめる」と言っています。
これも、本人のやる気とやり方次第で変わってきたことだと思います。
そうは言っても、字を読むことが得意になったわけではありません。ある程度要領を得てきた程度です。
教科書の暗記が必要なら読んでやるし、漢字の暗記が必要ならバラバラな部品を読んでやる、やり方が間違ったこともたくさんありますが、定型的な答えはない問題です。何が最適なのか試行錯誤です。そんな中、将来困らないようにするために、これからも進めていこうと思います。
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