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なれる訳ないから「憧れ・尊敬する人」はいない方がいいのか?

サッカー少年
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小5むすこ。

いつも大体相手してくれている仲良しのともだちが夏休み早々から骨折をしてしまい、フォートナイトはできないわ、サッカー練習も、計画していたプール遊びも出来なくなってしまいました。

他のともだちも順番に相手してくれていますが、タイミング悪く「塾」や「習い事」が入ってしまうと一人で遊ばざるを得ないむすこです。

そんな時でもこのくそ暑い中、公園に行ってボールの蹴り方の一人で研究しているようです。

「無回転はこうやったらうまくいくようになった」とか言ってます。

たまにサッカーの練習を見に行った時に、フリーキック練習でゴールの上の隅っこに「ビシッ」と打ち込むことがまれにあるので、自主練習の成果はある程度あるんだなあと思ったりします。

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「憧れの人」とか「なりたい人」とか「尊敬する人」って

誰にでも、何かをする時にきっかけってあると思うのですが、そこにテレビや雑誌で見た人がやたらかっこよく見えて「あんな風に、やってみたいなあ」なんて尊敬のまなざしと共に、それが趣味のきっかけになることはよくあると思うのです。

でも、尊敬する人のようになりたい/なろう!と思うのは本当に大事なんでしょうか?

ぼくだって、何か楽器演奏かなんかでそう思ったことはありますが、結局それになれる訳では無く今に至る状態です。

学校の卒業アルバムなんかに、「尊敬する人」を書かされることもあるのですが、当時のものなんか恥ずかしくて見てられませんし、そもそも忘れてしまいました。

むすこに「あこがれの選手っている」と聞いて見ました。

むすこのサッカースパイク ロナウドのサインが印刷されています。憧れの人って言ったらこの人あたりなんだろうな。

むすこにもそれなりに憧れの人(プロサッカー選手ばかり)は口では言っていました。

そんなむすこに、

「あこがれの選手っているの?」と聞くと

「いや、いないよ。それよりうまくなる技を真似したい。」とあっさり。

それは、こんなサッカー選手の「(すごい)プレイを知っている、すげー」、「(プレイを)見た事がある、すげー」と言いながらみていただけで、サッカー選手そのものでなくその「プレイ」や「技」を対象にしていたものだったようです。
やってみたい技ををたまたまともだちができた時には「あいつ〇〇と同じ技やるんだよ、すげー、すげーんだよおとうちゃん!」とともだちのことを屈託なく褒めます。

そんなむすこを見て特定の人や選手を「尊敬する気持ち」が強すぎないで、やっている技に集中しているのはよかったなと思います。

「(特定の人を)憧れ・尊敬する気持ち」が強すぎないことがよかった理由としては、

  • その尊敬する人になれる訳ない。
  • その人が絶対的なものになって盲目的になってしまう。
  • その人が時代遅れになったら、自分もそこで時代遅れになってしまう。
  • その人の言霊に支配されてしまう。

そんな事が挙げられます。

特に最後の「言霊に支配されてしまう」のは、重症です。

「その人がそう言ってたら」それが絶対だ!と思ってしまうのはとっても怖いことだとぼくは考えています。

時代の移り変わりは速いのだよ

その「憧れの人」の話に沿って生きていくのは一見良い話に聞こえるのですが、実はそれに縛られているのと同じであって、この何が起こるか分からない時代に臨機応変に対応できないというのは、果たして本人にとって本当の幸せが来るのかな?と疑問に思うのであります。

「夢」と言うものを持つのは構わないと思いますが、この移り変わりの激しい世の中で、その物差しというのを自分自身でアップデートしていかないとと言うのがぼくの意見です。

すみません、ぼくみたいな人間が偉そうに恐縮です。
むすこには「学習障害」なりに自分で悩んで考えて、出来ない事を振り分けて、出来る事を一生懸命やって欲しいと思うのです。

LDじゃないむすめもいっしょだよ。

まとめ

そうは言っても「憧れ・尊敬する人」を作るな!と言う訳ではなくて、この時間の移り変わりの速い世の中ですから、もしそんな人が出来たとしたらコロコロ変えて時代に合ったものに対応していければいいのかなと思います。

そして、そんな時はきちんと自分なりに「どうして、どこに憧れてしまったのだろうか?」と常に問いかけながら、検証しながら生きて行って欲しいものです。

自分の頭で考えて生きて欲しい。それが一番と言う事が言いたいのであります。

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