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「標準服」採寸です、時代が移り思った事。

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小6むすこの中学校入学式が決まりました。

「4月7日!」

来月には中学校で説明会があって「標準服」と言う名の制服の採寸があります。

「着たく無いなー」と言うものにお金をかけるのはちょっともったいない気がします。

「制服もあるけど、勉強しずらいから自由にしてていいよ。買いたい人は買えば。」

そうして欲しいです。

「教育」と言う名を借りて、見知らぬおとなが寄ってたかってこどもを型にはめるのはわかりますが、「自由な発想」や、「個性」を大事にすることも「教育」のひとつに入れて欲しいと思うのです。

髪型だってみんな黒髪で直毛な訳ではないですしね。

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「決まりなんだから着なさい!」そんな時代の父でした。

制服

何世代も生きる時代が違うぼくの親なら何も考えずに制服の事は、

「決まりなんだから着なさい!」

「みんな着ているんだから!」

「着崩すとみっともないから、ちゃんと着なさい!!」

「そんな(制服)もん着たくない」なんて言うのは許されません。

そんな時代の親に怒られるのが面倒だから、こどもだったぼくたちも何も考えずに「着るもんだ!」とあたりまえのように思って着ていたことに、恐ろしさを感じます。

そんなぼくでも今では「制服なんて自由でいいじゃん」と思います。

ここ30年、40年で価値観が変わって来たと言う事だと思います。

型にはまっていた方が楽だった時代

ちなみにぼくは、中学も高校も「詰襟」の制服でした。

この「詰襟」の制服ですが、ぼくの感覚では襟のホックや前ボタンを開けて過ごすのは逆に気持ちが悪くて、着ている時は必ず締めていました。

その癖が今でも残っていて、帽子の顎紐がある時は上まで締めるとか、スーツのボタンは立ち上がっている時は絶対に上一個を止めていないと、気持ちが悪いと感じます。

ズボンのチャックが閉まっていないと何か落ち着かないのといっしょかもしれません(ちょっとちがうか??)。

ぼくも古い人間ですので、型にはまってキッチリしていた方が楽だったし、気持ちが楽に感じました。

右肩上がりの時代で、おとなが作ったレールに乗っかっていれば大丈夫だと思っていた時代に身に付いてしまった、ある種の特性なのかもしれません。

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おとなが作ったレールを見る暇は無い、むすこたち。

今はそんな時代じゃありません。

ぼくは、物事の筋道を自分で考えてもらうように、むすこ、むすめには、身近な事、将来の事、学校の事、生活の事、を含めて言いたい事を言おうが、兄妹げんかをしてようが、何も言わないように心掛けるようにしています。

黙っているのは古い人間には結構辛く、血圧も上がりそうになりますが、そうするようにしています。

おとなにあーだこーだ言われてこれまでの価値観で何かを成しえて行くことももちろんアリですが、自分の出来る事ややりたい事を実現させて行く事も、今の時代はアリになってきました。

ぼくの時代までのように、型にはまったおとなを製造してきたこれまでの教育は、今やこどもひとりひとりの権利を見つめることにより既に破綻をしてしまっていると思います。

むすこのように、学校の学習は2年程度遅れてしまっていて、試験もものによっては半分程度の正解に留まっています。そんな事によって自分を評価されたく無いし、自分の得意な事を活かしていきたいと本人が考えて行くのは当然のことだと思います。

こどもだって、生きていくためには自分には何ができるかを考えているからです。

頭の中が忙しいティーンは、おとなの作ったレールを見ている暇も無いし、レールに振り向く時間も無いのです。

本当に必要なった時は将来設計を俯瞰的に見る事が出来るでしょう。

楽しみにしています。

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まとめ

中学校入学式日が決まって、むすこの「標準服」(制服)から考えた今の時代を記述しました。

うちの方では小学校では制服はありません。

中学校ではなんで制服が必要なんでしょう。

「勉強が一番大事」と言うなら、好きな格好で良いと思います。

大抵、体操服だって指定です。体操服こそ、汗かきもいるし、体感は違うと思います。

考えてみると「教育」と言う名のもとに、コストがかかるものですね。

制服は必要の無いものと思っていますので、うちにとっては「レガシーコスト」になっています。

もっと、生徒・保護者を信用するべきです。

そして、もっと困った場合に手を差し伸べるべきだと思います。

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