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ディスレクシア中1むすこ。テスト勉強中。
「おれはこれを覚えないといけない!」と言って読みだしたのは「百人一首」の一部。
「え???」と思って聞いてるとスラスラ唱えています。
国語のテスト範囲だそうです。
ぼくは、申し訳ないのですが、この手のものは適当にやってやり過ごしてしていた口なので全く覚えていません。
妻も聞いていて、結構覚えている方だと思ったのですが、
「あれ?そうだっけ?」と不安になるようなひと言を言います。
「あってるよ!大丈夫だよ!」と自信満々のむすこ。
妻も一緒になって資料集を確認します。
「あ、ほんとだ。おかあちゃんが間違えて覚えてたよ。」
「だろ、おれが正しい。」とむすこ。
しかし、ディスレクシアであるむすこがあれだけスラスラ言えるようになってるのはなぜ??
古いことばや民話のように情景を表すような文章は苦手だったむすこです。
百人一首は古典である日本の詩であって、古めかしい表現や言葉遣いが盛りだくさんなはず。
ディスレクシアを持つ人にとっては、その特徴的な表現や読み方の難しさが、百人一首を読む上での障壁になる可能性があるだろうにってのに・・・・
かすかに詠む喜びを感じているのかな?
そもそも、詩を読むぐらいならそこそこ流暢に読めるぐらいまで改善してきました。
なので、「読書の時間」では詩集を持って行くようにしています。
百人一首は、旧仮名遣い(文化庁は歴史的仮名遣いと言ってます)がやっかいです。
同音異義語に苦しめられていた時期もありましたが、語彙が増えてきてどういう訳か克服してきました。
ディスレクシアのむすこですが、もともと極端なぐらい勘の良い子です。
百人一首は日本の文化や美しさを体現した作品です。
そんな子が、これらの詩に触れることで、詩歌の世界に魅了されたり、感性や創造力を発揮する機会になれば良いなと思います。
感じ方は自由ですからね。
むすこが詩に感じる喜びや響きから、自分なりの感性や解釈が生まれてきていて勉強は嫌いだけど、この詩はそれ程嫌いじゃないと頭のどこかで感じているのかもしれません。
読解力と理解力の発展
百人一首を読むことは、言葉や詩の意味を理解する上での課題があると考えています。
そこはすごく大事なところだと思うのですが、ぼく個人的には現時点ではそこまでこのむすこには求めないようで自由に学習して欲しいと考えています。
何かしら自由を感じてここまで読めるようになったのなら、何かしら自分で感じ取ったものがあるのでしょう。
今は、次に突っ込んだ理解等が必要な時に嫌悪感が頭から出てこないようにしてあげたいのです。
そもそも、習ったばかりの古典が読めるようになって、意味や解釈まで覚えろなんてあれには無理だよ。。。。
それぞれの意味、解釈の方法は、先生におまかせして、自分のペースで頭の中で咀嚼して欲しいと考えています。
先生の教え方がうまいのかな?
ディスレクシアのむすこが百人一首に取り組むことで、今後読解力や理解力を発展させる機会になればと願うのです。
詩の意味や感情を捉えるために、より注意深く文章を読む必要があります。
でも、ぼくは古典がわからないので、ここは妻にまかせよう。。。。すまん。
百人一首は「競技かるた部」のマンガの世界しかしらないや。。。
自分なりの弱いところを直していました
読みについて、自分が不得意なところを資料集を修正していたのもエライなと思いました。
上述の旧仮名遣いを先生が言ったことを現代仮名遣いに直していました。
例えば「いたづら」→「いたずら」、「いふ」→「いう」等です。
わざわざ自分で直しているのを見ると、やはりこのような仮名遣いには頭の中が混乱するからなんだろうなと思うところです。
まとめ
朝になってからも、「百人一首」の一部をブツブツ空で唱えていたむすこです。
聞いていると合ってるのでさすがの記憶力です。
紙面に書いてあることを記憶すると言うのは、頭の使い方や活性化につながると思っています。
今後、本や液晶画面をじっくり読めると言う事にもつながることでしょう(但し、長文は除く)。
なかなか点数には反映されなくて悔しい思いをしますが、テストが終わるときれいさっぱり忘れる知識より、他の事を関連させながら勉強する知識は頭からふとしたことで出やすいと考えています。
自分なりの目標や信念を持って、体を動かして、人に教えるように勉強する。
すごく時間が掛かるけど、ぼくはきっと君は大丈夫と信じています。
こどもを信じることを忘れずに、勉強に付き合うのであります。
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